楓はしばらく呆然と二足歩行の猫を見ていた。大きさはだいたい腰くらいの大きさだろうか? 楓は平均的な女子高生の中では小柄な方ではあるが、それでも腰くらいの大きさと言えば一般的な猫のサイズよりは大きい。
いや、それ以前に二足歩行をしている。さらにどうやって持っているのかわからないが釣り竿を持って、何かしらの仕掛けを海に投げ入れた。
「……見なかったことにしよう」
楓は、自分の精神を落ち着かせるために準備をしてきた仕掛けを結び始めた。気持ちも追いつかないし、おじいちゃんと釣りをした思い出の場所とは離れているが、どうせ海はつながっているから釣れるだろうと高をくくった。というより、目の前の奇妙な生命体のことを忘れたい。
「……きたな」
猫が竿を振り上げると、きれいな曲線を描いた。ジジジ……という音が鳴り、やがて水面からバチャバチャと音を立てながら魚が顔を出す。
ラインを巻き取り、竿を上げると、宙に打ち上げられた魚が体をひねらせる。……すると。
「ふんっ!」
猫の爪が一気に伸びた。飛び上がって空中の魚の脳天へ爪を一突き。さらにもう一撃エラの部分に加えて、いつの間にか用意してあったバケツに、吸い込まれるかのように魚は入っていった。さらに着地するより早く無駄のない動きで仕掛けが投入される。そして、タバコをふかすように炙りシシャモをひとかじり。
「……”豆”だな。ちと”タナ”を変えるか」
釣りを知っている人ならお分かりだろうが、猫は”脳絞め”と”血抜き”を落下するまでの数秒でこなしてしまったのだ。鮮度を保つために、魚が釣れた瞬間に魚を殺し、美味しく鮮度を保つ方法。これをしないと、身が固くなったりして、まずくなるのだ。
「……な、なに……あの猫?」
だが、楓にそんなことわかるわけもなく、つい一連の流れるような動作に見入っていた。
しかし、一度無視すると決めたのだから、再びたどたどしく竿の準備を始める。何とか仕掛けを結び終わり、仕掛けを足元に入れる。
(……私だってちゃんと覚えてるんだから。この釣りは投げないで下に落とすんだよね)
楓のやっている釣りは、サビキ釣りという。プラスチックのかごにコマセというエサを入れて海中で拡散させる。そうすることで魚を集めコマセに群がってきた魚に毛バリのような仕掛けを食わせるというものだ。
「……ちら」
猫がしている釣りが気になって、そちらを横目で確認してみる。その猫は、やたら小さい仕掛けを使っていた。
「……ミミズ……いや、ゴム?」
オモリのついたハリにゴムのような素材でできたひょろ長いものがついている。エサは使っていないようだ。
楓はなんとなく見たことのあるそれの正体を思い出してきた。確か父親が話していたルアーというものに、そんなものがあったはずだ。
――猫が使っている仕掛けは、ワーム、そしてジグヘッドというルアーの仕掛けだ。それらを本物のエサのように見せかけて釣るルアー釣りのようだ。
そして、二匹目を釣り上げたところで、釣っている魚の正体が楓にもわかった。食卓によく並ぶ魚で、楓だけではなく日本人全員が知っているであろう魚。”アジ”だ。
(……アジ……確か、私が使ってる仕掛けもアジを釣ることができるんだよね)
楓の言う通り、サビキ釣りのメインターゲットはアジである。最もアジ以外にも集まってきた魚は大抵がターゲットとなる。しかも使うのは本物のエサだ。
(こっちは本物のエサを使ってるんだもん。あんなわけわかんない猫ちゃんなんかに負けるか)
無視を決め込んでいたはずが、いつの間にか対抗心へと変わっていた。一般的には楓の言う通りサビキ釣りとルアーでは、サビキの方に軍配が上がりやすい。本物のエサを使うだけでなく、サビキ用のコマセは臭いなどの集魚力が追加されている。そのため、基本的にはサビキの方に魚が集まりやすいのだ。
一方、ワームには臭い付きのものもあることにはあるが、基本的にサビキの集魚力には劣る。
だから絶対に負けるわけがない……と楓は思っていた。
「ふんっ!」
「…………」
「これで10匹……ふっ、ツ抜けだな」
「……………………」
「15匹目。そろそろカラー変えるか」
……猫が15匹目をバケツに入れる間、楓の竿は一切曲がらなかった。
(……な、なぜ……こっちは本物のエサを使っているはずなのに、偽物のエサ……それも、あんな奇妙な猫なんかに負けてるの……?)
落ち込んでいる楓の竿が、しゅんとなったようにうなだれた。すると、さっきまで釣っていた猫が、とことことこちらに歩いてきた。
「おめぇ……その竿……」
「へ?」
猫が何かを言いかけたが、再びシシャモを咥えてニヒルに笑う。
「いや、なんでもねぇ。……おめえさんは、立ち位置がわりぃんだよ」
「……立ち位置?」
そう、楓が釣れない理由は立ち位置にあった。
楓が釣りをしている場所は流れが強い。サビキ釣りの場合コマセと仕掛けが同じように流れないと釣りづらくなるが、仕掛けはオモリがあるのに対してコマセは簡単に流れて行ってしまう。
そのため、仕掛けからはやや離れた場所に魚が集まってしまい、いつまでたってもハリを食わないわけだ。
そのことを猫が説明すると、肉球で少し内湾側を示した。
「あっちでやってみな。あの辺はチビが多いが、今の仕掛けなら一番合ってるだろ」
「……見るだけで仕掛けってわかるもんなの?」
「さあな……信じる信じないはおめぇさん次第さ。……まぁ、そんな適当な結び目作る奴の仕掛けなんざ、たかが知れてらぁ」
生意気な猫に従うのは癪だが、コマセと仕掛けの同調という話は納得感があった。渋々言われた通りの場所で仕掛けを落とす。
すると、瞬く間に魚が集まり、竿先から深く引きずり込まれた。
「わわっ!」
楓は慌てて竿を起こす。
「その引きならメバルだ。嬢ちゃんのようなへっぴり腰でも簡単にあがらぁ。落ち着いてあげてみな」
言われた通り竿を起こしてリールのハンドルを巻く。最初は引きづり込まれるかとも思ったが、だんだん力は弱くなり、楓の力でも簡単に持ち上がった。
「……きんぎょ?」
「バカ。メバルだ。さっき言ったろ」
茶色の皮に大きく飛び出した目玉。ずんぐりむっくりな姿に、楓は思わずかわいいと思ってしまった。
「……私、自分一人で釣ったの初めてかも……」
さっきまで感じた気味の悪さはどこえやら、満面の笑みを見せつけた。子供のような無邪気な笑顔に、猫も満足そうににやりと笑い、煙をはいた。……いや、タバコではなく、シシャモなのだが……。
「……ねぇ。あなたは何者なの? 普通の猫ではないことはさすがにわかるけど」
「さぁな……俺も気が付いたらこうなってた。話しかけたのもただの気まぐれ。それ以外は普通の猫さ」
「なんだかなぁ……普通の猫は二足歩行で立たないし、釣りもしないしおっさん声でしゃべらないんだけ――」
楓が苦笑していると、猫は右の肉球を山に向けた。
右腕が変形しはじめ、85㎜超高密度エネルギー砲が現れる。激しい光と爆音で、空間を突き抜け、その光の矢は、超音速で山の一角を破壊した。
「――ど――」
言葉を失うとはこのことか。楓は完全にフリーズしたまま、ビームがうがった山の先を凝視していた。
「ったく……最近はポイ捨てが横行していけねぇ……30km先でおにぎりのフィルムを捨てやがった……で、なんの話だ?」
「……え……あ……はい、ナンデモナイデス」
同じビーム砲の出力を弱めてライターのように火を生み出した猫は、シシャモのしっぽを器用に炙り、煙を立てながらにやついた。
「そうか……じゃ、俺はまた向こうで釣ってくら。気が向いたら話してやるよ」
こうして、アジング好きのサイボーグ猫「だいふく」と普通の女子高生「安治平楓」の奇妙な関係は、閃光と、燃え尽きるおにぎりのフィルムと、30km先でこだまするパリピたちの悲鳴とともに、やかましくも穏やかに始まったのだった。
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