――九州北部に浮かぶ島「茜島」。
昔は人間より猫の方が人口が多いということで人気も出たが、今ではホテルどころか民宿すら全部潰れた孤島。唯一の救いは、フェリーに乗ればそれなりに発展した街に行けること。
もっとも、船に揺られている彼女が暮らすはずだった東京と比べれば天と地の差だが……。
「だる……」
きっかけは父親が脱サラして、こんな寂れた島で料亭を開くと言い出したことだった。
そもそも「味自慢 料亭あじひら」は、もともと東京の一等地に立つ予定だった。脱サラすると言っても父親はすでに一生暮らせるくらいの財産を築いた元若社長である。趣味全開の料亭をオープンさせても資産はあまりあるくらいだ。
が、事態が急変したのは、楓の祖父がガンで亡くなったことがきっかけだ。
祖父はこの小さな島で謎の発明をしているマッドサイエンティストだった。動物と会話できるとか、二足歩行のロボットとかを一人で作っては、その技術をどこにも売らず、自分のコレクションにする変人。
そして、死んだ直後に祖父から日本のすべてのロボット産業に送信された一つのメールが、世間を騒然とさせた。
祖父は自分の技術のほとんどを、タダ同然に日本のロボット産業すべてに送信してしまったのだ。
その技術は、数世紀先をいくレベルのとんでもないものだったらしく、そのせいで安治平家は騒然とした。各メディアやロボット企業からは取材や技術協力の要請などなど……。だが、いくら父が元若社長のやり手といってもロボットのことはさっぱりだ。
仕方なく遺産整理ついでに各企業の対応のために島に訪れたのだが、父の故郷はひどく寂れていた。とても人の住める場所ではない。といっても過言ではないほどだ。
各所メディアの応対を終わらせたあと、父は言った。「この島にあじひらを開く」と。母も、元々は島民だ。それだけに二人の思いは一緒だったらしい。
とても感動的な家族愛や地元愛に満ち溢れた美談に聞こえるが、子供の楓にとっては笑い話にもならない。なんせ夢の都会暮らしが、田舎すぎる島暮らしに変わってしまうのだから。
事情が事情なだけに自分だけ反対するわけにもいかない。いちおう自分だけ東京に残るという案もあったが、心配する両親を見ているといたたまれなくなり、一緒に島民になることを決めた。
……が、楓のモヤっとした気持ちはそう簡単には晴れない。そりゃそうだ。いくらフェリーが出ていると言っても16時には最終便だ。必然的に門限が発生する。部活にも入れない。
「はぁ……」
楓のため息は、誰に聞かれることもなく潮風と共に彼方へと流れた。
「楓、そろそろ準備しておきなさい」
母の声にやる気なく手を上げるだけで返す。荷物と言ってもリュックサック一つ。それ以外は全部引越屋さんに任せてあるので準備も何もない。なので楓は、再びボーッと水平線を見つめることにした。
次第に山積みになったテトラポット群が目に映った。コンクリートの防波堤の上で猫が……。
「……は?」
……その猫は、釣り竿を持っていた。しかもタバコのようなものを咥えて、ニヒルな笑みを浮かべていた。
――島に上陸後、楓は両親の制止も聞かず、異様な光景をみた堤防へと向かった。だが、そこにはすでに謎の猫の姿はなかった。
「い……いやいや、やっぱ幻覚だって……そうだ。そうに決まってる」
ストレスのせいで幻覚を見たのかもしれない。大きく息を吸って、嫌な思いと一緒にゆっくりと息を吐き出した。
「……帰ろう」
家は港のすぐ近くだった。まだ荷物も届いてないし、祖父の遺品が少し残ってるだけだ。
落ち着くために自動販売機でコーラを買って、一気に煽る。むせて咳き込んだものの、そのおかげか謎の生命体(どう見ても猫だが)のことは綺麗さっぱり忘れた。
「えっと、ここだよね?」
両親から家の場所は教えてもらったはずだが、初めて見る自分の家の姿に間違えていないか、つい不安になる。周りとは違って綺麗な建物なため、間違いはないはずだが……。
中に入っても大丈夫かためらっていると、中から母が現れた。
「ああ、おかえり。今から夕飯買ってくるけど、何か食べたいものある?」
……母親は普段通りだ。
「なんでもいいよ」
何故かホッとした楓は、まだススだらけの家に入り、ふと足元で何かが光ったことに気がついた。
「……釣り竿」
「おじいちゃんの遺品よ。昔楓も一緒に釣りしたでしょ? 覚えてない?」
「そうだっけ? もう忘れたよ」
と、言いつつ楓はなんとなくその時の光景を思い出していた。
楓にとっては祖父とはいい思い出しかない。
祖父にとってもたった一人の孫であり、溺愛と言っても過言ないほど楓を愛していた。そんな祖父の隣に座り、一緒に釣り糸を垂らしている時間。おじいちゃんに自慢げに釣果を見せられ、ちょっと不貞腐れてみると、おろおろとする祖父の顔を思い出し、笑みが自然とこぼれだした。
……そうだ。間違いなくその時におじいちゃんが使っていた竿だ。
「父さん。この竿使ってもいい?」
お店の奥で片づけをしているお父さんに話しかける。すると作業をしながらも、にこやかに答えてくれた。
「もちろん。どうせ俺の竿は持ってるしな。それにしても、お前釣りは久々だろ?」
「おじいちゃんちに来た時に竿借りてやっただけだからねー。やり方は何となく覚えてるけど」
道具を物色しながら釣り方を思い出してみる。
楓が手にしたのは、青いプラスチック製の小さなカゴと、それに複数のハリが付いている仕掛け。
サビキ釣りという釣りに使う道具だ。結び方はスマホで調べることにして、さっそく釣り場に向かうことにした。
「うまくできればいいけど……」
結び方はユニノットというものが覚えやすいと書いてあったので、それで何とかなった。結び終えた楓は、昔を思い出しながら堤防を歩く。
「……あのへんだっけ?」
何となく、お爺ちゃんと小学生の頃の自分がいる風景が頭に浮かんだ。きっとあそこだと思って、自然と駆け足になる。
……が、そこに見慣れないものがある。
「……キャットキャリア……?」
確か、ペットの猫を病院や旅行に連れていくときなどに使うケース。それが無人の堤防にポツンと一つ置かれている。しかも妙にデカい。
首をかしげていると、それはゴトゴトとひとりでに動く。捨て猫? いや、野良猫が多いこの島で捨てるなら、そもそも野に放つはずだ。違和感だらけのそのキャリアから、チャックがひとりでに開いていく。
「……そろそろマヅメか……」
聞いたことのないほど渋く、低い声がキャットキャリアから聞こえてくる。そこから小さい何かが二足歩行で姿を現し、胸元のタバコケースから、一本取り出し、おもむろに火をつけた。
よく見るとタバコではなく、シシャモだった。シシャモを炙り、それをタバコのように加えている。風体こそ完全に釣り好きのおっさんだが、楓の思考を停止させる原因はそこではなかった。
「いい潮……流れてるじゃねぇか……悪くねぇ」
と喋っているのは、全身真っ白な毛に覆われ、黄色いライフジャケットを着た猫だった。
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